「ロシアの消された町」という言葉を見かけた。町が消されたとは、どういうことなのだろう。
調べてみると、ロシアにはダムの建設によって水没した町や、産業の衰退によって無人になった町だけでなく、存在そのものを秘密にされていた町もあった。そのひとつが、シベリアにあるセヴェルスクである。
セヴェルスクは、かつて「トムスク7」と呼ばれていた。1949年、ソ連政府はトムスク近郊に高濃縮ウランやプルトニウムを生産する施設を建設することを決定した。核兵器開発を進めるための大規模な計画だった。
工場を建設するだけでは足りない。そこで働く技術者や労働者、その家族が暮らすための町も必要になる。こうして核関連施設とともに発展したのが、セヴェルスクだった。
しかし、この町は一般の地図には掲載されず、外部の人々が自由に出入りすることもできなかった。郵便番号のような「トムスク7」という名称が使われ、町の所在地や施設の実態は秘密にされていたのである。
なぜ、町そのものまで秘密にする必要があったのだろうか。
背景には、アメリカとの核開発競争があった。核兵器の製造能力や施設の所在地が知られれば、国家の軍事機密が漏れるだけでなく、有事の際には攻撃目標にもなり得る。施設だけでなく、それを支える町も秘密にすることが、国家安全保障の一環だったのだ。
興味深いのは、セヴェルスクが単に監視と制限だけの町ではなかったことである。核関連施設で働く人々は、専門職としての雇用や比較的高い賃金、整備された住宅や生活施設などの恩恵を受けていた。外部との往来や情報発信には厳しい制限があった一方で、住民にとっては学校があり、店があり、家族や友人が暮らす日常の場所でもあった。
ここには、秘密都市の複雑さが表れている。国の管理によって自由が制限される一方、その管理によって仕事や生活基盤が支えられる面もあった。住民全員がその暮らしに不満を抱いていたわけではなく、閉鎖された環境を評価する人々もいたという。
では、ソ連が崩壊した後、この町はどうなったのだろう。
1991年にソ連が崩壊し、翌1992年ごろから「トムスク7」に代わって「セヴェルスク」という名称が使われるようになった。しかし、秘密都市としての性格が完全になくなったわけではない。現在も閉鎖行政区域として管理され、一般の人が自由に出入りできる町ではない。
つまり、地図から消されていた町が、体制の変化によってその存在を知られるようになったものの、完全に開放されたわけではなかったのである。
さらに、セヴェルスクにはもうひとつ忘れてはならない歴史がある。1993年4月6日、核関連施設の再処理工場で爆発事故が発生した。濃硝酸とタンク内の有機物が反応し、放射性物質が施設の外にも放出された。日本原子力研究開発機構の資料では、国際原子力事象評価尺度(INES)のレベル3に相当するとされている。この事故では死傷者は報告されなかったが、施設周辺の環境が汚染された。
秘密を守ることと、安全を守ることは同じではない。核施設を秘密にすることには軍事上の理由があったとしても、事故が起きたとき、住民や周辺地域の人々が必要な情報を得られるのかという問題は残る。
セヴェルスクの歴史を知ると、「消された町」という言葉の意味も変わってくる。町そのものが破壊されたわけでも、住民が一斉に追い出されたわけでもない。そこには人々が暮らし続けていたのに、国家の都合によって、その存在を外の世界から見えにくくされていたのだ。
国家にとっては、軍事機密を守るための施設と町。しかし、住民にとっては、そこで生まれ、働き、家族と暮らし、思い出を積み重ねていく故郷である。
国が町を作り、そこで暮らす人々の生活を支える。同時に、町の存在や住民の移動を管理し、その情報を秘密にする。セヴェルスクには、国家が人々の生活を支える力と、その生活を管理する力が、同じ場所に存在していた。
地図に載っていなかったからといって、そこに人々の暮らしがなかったわけではない。むしろ、外から見えなかった町の中にも、私たちが知っているのと同じような日常があったのだ。
「消された町」という言葉の裏には、地図から欠けた地名だけではなく、国家の計画と、そこに暮らす一人ひとりの人生が重なり合った歴史がある。
参考資料
- トムスク州政府「セヴェルスクの歴史」 — 1949年の建設決定、都市の成立、1997年の閉鎖行政区域化。
- 日本原子力研究開発機構 ATOMICA「旧ソ連秘密都市の原子力施設」 — 秘密都市の背景と、トムスク7の核関連施設について。
- 日本原子力研究開発機構 ATOMICA「トムスク事故」 — 1993年の爆発事故の原因と影響。
- 国際原子力機関(IAEA)事故調査報告書 — 事故後の調査、放射線影響と環境評価。

