人間の記憶のメカニズムは完全には解明されていません。今も研究され続けています。しかし、研究の結果以前より多くのことがわかってきています。脳のどの部分が記憶をつかさどっているのか、感情と記憶はどう関係しているのか…そんな記憶のシステムの解明の手掛かりとなった、HMさんを紹介します。
手術で記憶を保てなくなったHMさん
HMさんとは、1926年から2008年まで生きたアメリカ人の男性です。生前プライバシー保護のため本名は伏せられていました。現在は本名も公開されていますがここでは以前と同じようにイニシャルで呼ぶことにします。彼は10歳の頃からてんかんの発作に悩まされており、27歳の時にてんかんの治療のために脳の一部を切除する手術を受けました。その結果、彼は重度の健忘症になり、手術後の出来事や新しい知識を長期記憶に保存することができなくなりました。手術前の記憶や運動技能などは正常に保たれていましたが、新たなことを覚えられなくなってしまったのです。
HMさんは、手術後に前向性健忘と逆向性健忘の両方を発症しました。前向性健忘とは、手術後の出来事や新しい知識を長期記憶に保存できない状態です。逆向性健忘とは、手術前の出来事や知識を思い出せない状態です。HMさんは、手術の3年前からの部分的な逆向性健忘を示しましたが、時間によって強弱の差がありました。手術の直前の出来事はほとんど覚えていませんでしたが、幼少期の記憶は正常に保たれていました。
つまり、新しいことを覚えることと、昔の記憶を思い出すことは脳の別の部位が働いていたのです。MRIなどの機械がない時代に、脳のどの部分が記憶に関与しているか、ということを調べることは容易ではありませんでした。よって、HMさんの症例は様々な研究が行われました。
HMさんは、短期記憶は正常でしたが、長期記憶を形成することができませんでした。短期記憶とは、7秒くらいしか続かない短い記憶です。長期記憶とは、数年以上の長期間にわたって保持される長い記憶です。HMさんは、新しい人や物については7秒間だけ覚えていることができましたが、それ以上は忘れてしまいました。例えば、主治医や担当ナースも毎朝会う時は“初対面の人”だと思っていました。彼のことを数十年ずっと研究していた研究者にも最後まで「初めまして」だったそうです。
HMさんの研究で記憶の様々なことが明らかになった
HMさんは、新しく運動技能を学習することができましたが、運動学習をしたということは思い出すことができませんでした。それは、昨日何をしたか、誰に会ったかを記憶している脳の部位と運動技能を記憶する脳の部位が違っているということを示唆するものでした。
HMさんの症例から、記憶には異なる種類やシステムが存在することがわかりました。また、海馬や内側側頭葉が陳述記憶の形成に重要な役割を果たしていることもわかりました。
彼の症例は、脳科学や心理学の分野で非常に有名で、記憶の仕組みや脳の機能に関する多くの研究に貢献しました。特に、彼は海馬という脳の部位が記憶の形成に重要な役割を果たしていることを示す最初の証拠となりました。また、彼は記憶には異なる種類やシステムが存在することを示すこともできました。
彼は亡くなるまで数十年間にわたって研究者たちに協力し、彼の脳は死後も保存されて詳細な解剖や分析が行われました。彼の脳は「神経科学界で最も有名な脳」と呼ばれることもあります。
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