エルトゥールル号はなぜ遭難したのか?

災害

和歌山県沖で台風に襲われて遭難したトルコの船、エルトゥールル号を地元の人が救助したという話は有名です。(確か教科書にも載っていたような覚えがあります)しかし、エルトゥールル号が遭難した本当の理由はあまり知られていません。

地元の人が救助にあたった

エルトゥールル号遭難の原因についてですが、直接的な原因は広く知られている通り、台風に直撃したことです。オスマン帝国のエルトゥールル号は1890年9月16日に大島樫野崎沖を航行していました。そこで台風に遭遇し、強風と波浪により航行不能となりました。和歌山県大島村(現・串本町)に座礁した後、海水が機関部に浸水し、水蒸気爆発が起こって沈没しました。この事故での587名が死亡、生存者は69名という大惨事となりました。このとき、大島村の島民が生存者の救助にあたったことは有名です。

そもそも長期の航海に耐えられるような状態ではなかった

さて、エルトゥールル号が遭難した理由は台風に遭遇したから、という単純な理由ではありません。複数の要因が重なって起こったものです。
まず、一つ目はエルトゥールル号自体が古い木造船であり、遠洋航海に向いている船とは言えなかったことです。事故にあった当時、エルトゥールル号は建造後26年が経っていました。オスマン帝国から日本へやって来るのに11か月もかかっています。日本にやって来るだけでも精一杯と言える状態だったと考えられています。ちなみに、我が国が遭難事故後に生存者を送り届けたときは3か月でオスマン帝国に到着しています。
二つ目は、長期の航海による乗組員の疲労の蓄積。三つめは資金難による補給物資の不足、四つ目は熟練した乗組員の不足。エルトゥールル号は日本からオスマン帝国までの航海を行える状態ではなかったのです。
では、なぜこのような状態での出港を強行したのでしょうか?それには政治的な背景が存在していました。このエルトゥールル号の航海は、国際情勢が不安定な中オスマン帝国の国力を誇示したい皇帝・アブデュルハミト2世の思惑によるものでした。オスマン帝国としては、この航海を成功させる必要があったのです。出港した横浜でも台風の時期を避けるように勧められましたが断っています。これも、一刻も早く帰路につくよう海軍省がエルトゥールル号に圧力をかけていたからではないかと言われています。

起こるべくして起こった事故

そして、最後、五つ目、この消耗しきった船が台風に遭遇したらどうなるか…つまり、起こるべくして起こった事故だったのです。
エルトゥールル号遭難は悲劇と美談で語られることが多いですが、その背景に様々に要因があったことは広く知られてほしいですね。このケースから得られる教訓は多くあると私は考えます。

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