チリ津波のとき助かった人、助からなかった人はどのような行動をとったのか?

災害

こちらの記事では、日本の裏側チリで発生した地震による津波被害についてご紹介しました。今回は、その津波被害が起こった時に各地の人々はどのような行動をとったのかをご紹介します。

1960年チリ地震とは?

おさらいですが、1960年チリ地震は1960年5月22日(現地時間)にチリ南部沖合で発生した観測史上世界最大の地震で、マグニチュード9.5を記録しました。のちの調査で幅200km長さ800kmに渡って断層が20mずれた事により発生したことがわかりました。
当時は日本近郊の津波しか想定されておらず、津波が到達したときに津波警報が出されていた地域はありませんでした。その後、国際的な連携や予報技術の向上が進みました。また、防潮堤や防波堤の建設が進められることとなりました。

「前兆」を感じ取った人たち

津波警報は出されていなかったのですが、津波の前兆を察して逃げることができた人、また、独自の避難情報を出して避難できた人たちがいました。
岩手県種市町、岩手県山田町、岩手県大槌町などでは午前四時半ほどの早朝に漁師たちが海藻採りをしていました。しかし、浜から異常な引き潮が見えたため浜から引き上げ消防団に連絡、警鐘やサイレンを鳴らしました。そのサイレンのおかげで近隣の人々は早朝にも関わらず避難することができたのです。また、このときサイレンだけでなく漁師の方を中心に隣近所の人たちへの声掛けが避難へつながったと記録されています。お互いに助け合い、協力し合うことができる地域社会が形成されていたと言えるでしょう。
また、この津波は前兆が観測されていなかったため、津波に気づいた人たちが連絡しても宮古測候所は「異常なし」との答えでした。それでも、「やはりこの引き潮はおかしい」と感じた消防団員は地域住民を避難させ、最大の津波が来るまでに避難を完了させた地域もあったとのことです。
(この時代には今ほどの精度の予測は難しく、また遠方からの地震を想定していなかったため宮古測候所の判断も仕方がないのです)

宮城県女川町、岩手県宮古市では見張り中の消防団員が河口や引き潮の異常を感じ取り、正式な津波警報よりも前に避難のサイレンを出しています。宮古市では、津波到来後に正式な津波警報が出たときには市民の避難は完了していました。
女川町では朝の4時15分に避難命令を出しました。それから10分後には5mを超える津波が押し寄せています。両町とも壊滅的な被害を出しながらも、ほとんど犠牲を出さずにすんだのはこの消防団員の迅速な判断と、それに従った住民たちの行動のおかげだったのです。

他にも、三重県や、和歌山県、高知県などで朝方散歩をしていた人、大工さん、会社の宿直を務めていた人など一般の方々がいち早く海の異変に気が付き、地域住民の避難に貢献しました。

津波に近づいて行った人たち

海の異常に気が付いていち早く逃げた人たちもいれば、一方で海に近づいていった人たちもいます。
北海道、青森県、岩手県、宮城県、三重県などではチリ津波のときに海に近づいて行った人たちの記録が残っています。チリ津波では普段よりも何百mも潮が引いたところもあり、カニや魚、海藻などの海産物が手づかみで採れたのです。
確かに、目の前にお宝が並んでいるような状態ですので近づきたい気持ちはよくわかります。
しかし、もちろんこういった行為は危険な行為です。もし、異常な引き潮に出くわしても魚を採りに行くことは絶対にやめましょう。現在ですと、普段見られない光景を目にしたときスマホで撮影したくなるかもしれません。ただ、スマホで写真を撮る行為も充分避難が遅れる要因となります。海の異常を察したらまず逃げることを考えましょう。

津波の経験がなかった人たち

岩手県大船渡市では死者53名と、この津波で最大の被害を出しました。
大船渡市でも朝の4時20分頃に海の異常に気が付いた人によりサイレンが鳴らされました。しかし、その警報もむなしく一帯は高さ4mの津波に飲み込まれてしまったのです。
大船渡市では、「昭和16年の大火後都市区画整理がなされ、以来、急速に発展した街であり、従って転入者が多く、津波の経験の無いものが多かった。」ことも被害が広がった原因としています。
1896年(明治29年)6月15日明治三陸地震、1933年(昭和8年)3月3日昭和三陸地震、1952年(昭和27年)3月4日 十勝沖地震、と東北では数十年単位で大きな津波に襲われており、その地方に昔から住む人たちは津波に対して日ごろから危機感を感じていました。また、直接津波を経験した人だけでなく津波を経験した人の子や孫にその教訓は受け継がれていったのです。だからこそ、午前四時に突然「津波だ!」と消防団のサイレンが鳴った時に迅速な避難を行うことができました。
しかし、大船渡市の被害が大きかった地区では転入者が多く津波の経験がないため、もとから住んでいた人たちより津波に対する危機感が薄かったのではないかと言われています。早朝にサイレンで叩き起こされてみたものの、気象庁からの正式な発表もなく、住民の方も困惑したことでしょう。状況を鑑みれば仕方のないことだと思います。しかし、ここでの避難の遅れが命運を分けてしまったのです。

今回は、チリ津波におけるいろんな人々の行動をご紹介しました。
一口に津波と言っても、そこに至るまでの経験などで人々の行動はこんなにも変わってくるのですね。避難を呼びかけて回ってたくさんの命を救った方は尊敬に値する行為だと思います。
ところで、現代の私たちは、朝4時に起こされて「情報は出回ってないけどとにかく避難しろ」と言われて避難できるでしょうか?洪水、地震、火災、様々な災害がありますが、やってくるときは突然です。警報が間に合わないケースも今後出てくるかもしれません。そのとき、どういう行動をとるべきか考えてみるのも良いでしょう。

報告書(1960 チリ地震津波) : 防災情報のページ - 内閣府
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