関東大震災:両国を襲った大火災

災害

関東大震災では、地震の揺れ自体で亡くなった人よりも火災で亡くなった人の方が多いとされています。ではどういった経緯で大火災は起こったのでしょう。両国で起こった火災についてご紹介します。

横網町公園(陸軍被服廠跡地)

横網町公園は墨田区の両国にあり、元々陸軍被服本廠があった場所でした。ちなみに、読み方は「よこあみ」です。すぐ近くに両国国技館があることから「横綱(よこづな)」と誤読されることも多いそうです。


被服廠(ひふくしょう)は、大日本帝国陸軍の軍服を製造していた工場です。工場自体は1922年に赤羽台に移転し、その跡地は横網町公園として整備されました。その工事は1923年7月に開始されましたが、その最中の同年9月1日に関東大震災が発生しました。

関東大震災の避難場所だった横網公園

関東大震災では、1923年9月1日に発生したマグニチュード7.9の大地震で、東京や神奈川などの関東地方を中心に甚大な被害をもたらしました。この地震により、約13万5千人が死亡しました。
関東大震災では、地震の揺れでガス管が破裂したり、昼食の準備中だった人々の火が倒れたりして、多くの火災が発生しました。また、台風の接近で強風が吹いていたこともあり強風が吹き、燃え広がりやすい状況でした。

陸軍被服本廠跡地のある両国は東京の本所地区にあり、当時は燃えやすい木造住宅が密集していました。近隣では火災が発生し、周辺の下町一帯から4万人ほどの人が工事中の被服廠跡地に避難してきました。住宅街にいると火災の延焼に巻き込まれるので開けた土地である被服廠跡にやってきたのですね。
しかしいくら被服廠跡地が開けた場所だったとはいえ、4万人の人が集まるとかなりぎゅうぎゅうです。さいたまスーパーアリーナの座席数が37000人とのことなので相当な人数ですね。記録には「1人あたり一畳かそれ以下」とあるのでかなり密集している状態でした。
さらに、地震が発生した時間から避難に余裕があったため、周辺の火事に巻き込まれてしまわないように避難してきた人は荷車に家財道具を持ってきていました。

恐ろしい「火災旋風」

推定15:30〜16:30頃に、1番初めの「火災旋風」が巻き起こりました。火災旋風とは、炎を伴った竜巻のことで、広い範囲を一度に焼き尽くす現象です。火災が空気中の酸素を消費し、周囲から空気を取り込むことで、局地的な上昇気流が生じることで発生します。また、風の向きや速度によっても発生しやすくなります。今回発生した火災旋風は風速80mと推定されています。風速80mは、気象庁のしめす目安では「壁が押し倒され住家が倒壊する。非住家はバラバラになって飛散し、鉄骨づくりでもつぶれる。汽車は転覆し、自動車はもち上げられて飛ばされる。森林の大木でも、大半折れるか倒れるかし、引き抜かれることもある。」とあります。
炎の強風が避難していた人たちをまたたく間に襲いました。証言によると、火災旋風は一度だけでなく何度も吹き荒れたといいます。この旋風自体も威力が強く、強風に吹き飛ばされたり、この強風でなぎ倒された電柱や木がぶつかって亡くなったケースもあるようです。
人を吹き飛ばすほどの強風なのですので、炎は一気に広範囲に燃え広がりました。さらに、炎に巻き込まれただけではなく人々が持ち出していた家財道具に燃え移り、身動きの取れないまま身体に燃え移ったのです。これが、この公園での被害が大きくなった原因の一つです。
人々は火災から逃げようとしましたが、そこまで密集している中で逃げようにも逃げることができませんでした。また、初めの火災旋風を避けて人が固まっていたところに次の火災旋風が襲いかかり、逃げられなくなった人たちが死亡するようなこともあったようです。
公園にいたほとんどの人、3万8千人が亡くなりました。つまり、被服廠跡に避難していた人たちはほとんどが亡くなり、周辺の火災をあわせると関東大震災全体での死者13万5千人のうちの1/3がこの周辺で亡くなったことになります。炎で直接焼死した人だけでなく、火災から逃げるときに重なりあって圧死したり、せっかく近くの隅田川に逃げこむことができても飛んできた電柱に激突したり、力尽きて溺死したりと死因は様々でした。
被服廠跡で見つかった遺体はほとんどが「男女不明」でした。火事による損失が激しかったため、その遺体が誰であるかどころか男女の判別すらできない有様だったのです。

現在の横網町公園

被服廠跡の他、東京の各地で起こった火災は多くの死者を出しました。この火災には大学などが調査にあたり詳細な記録を残しました。調査していた本人たちも被災者であったのに、記録を残すことがいかに大事であったかを理解されていたのでしょうね。その記録は火災が広がったメカニズムを解明し、その後の防災に貢献しました。
被災後被服廠跡は修復され、当初の通り公園となりました。関東大震災だけでなく東京大空襲の慰霊碑も建っています。子供の遊び場や、日本庭園もあり多くの人が訪れる場所となっています。

都立横網町公園

横網町公園はインターネットで検索すると心霊スポットとしても有名なようです。しかし、心霊スポットとしてもてはやすのは悲惨な死に方をしたり、身元不明のまま埋葬されたりした方を冒涜する行為です。それだけでなく、心霊スポットとして囃し立て普通の人に恐怖の感情を抱かせたり、「子供を遊ばせたくない」と思わせるも迷惑な行為です。
「恐怖は無知から始まる」という言葉もあります。
横綱町公園には関東大震災や東京大空襲の資料が多く残されています。心霊スポットとしてではなく歴史的な悲劇を学ぶ場所として横網町公園を訪れることをおすすめします。

関東大震災 - Wikipedia
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